2011年6月10日金曜日

論文脱稿

少し前のことになりますが、久しぶりに専門の論文を1本書く機会があり、5月に脱稿しました(本当は、「久しぶり」ではいけないのですが、いかんせんこの間、教科書的な本の分担執筆の仕事が2つあり、また専門とは関係がない論文を書いていたりもしたので、久しぶりになってしまいました)。書いていたのは主に2月から5月にかけてでしたが、この間に東日本大震災があり、余震に怯えながらの執筆でした。


論文の執筆中、本山美彦編『開発論のフロンティア』(同文館、1995年)の「はしがき」を何度も何度も繰り返し読みました。この「はしがき」は、本山先生が阪神淡路大震災の直後に書かれたものですが、神戸にて被災者として経験したことを素材とし、災害という一種の極限状況から途上国の人々の置かれた状況を類推的に考察した上で、近年の開発経済論のあり方を批判したものです(本そのものは開発経済論の論文集なのに、この「はしがき」のおかげで、関西では震災本の一つとしてもリストアップされているほどです)。


私自身、この「はしがき」は何度か読んでいたのですが、今回の地震の後に改めて読み返してみて、そこに書かれてある一字一句が、あたかも体に染み込んでくるかのように、理解できました。というのも、今回の地震で私も、停電騒ぎやら食料品の買い占め・不足やら断水やらを経験し、また電気もガスも水道も食料もない被災地を報道で見るにつけ、先進国では非日常的ながら途上国ではごく日常的な一種の極限状態に一時的とはいえ身を置くことを余儀なくされたわけですが、このような先進国では例外的な状況を経験をする事によって初めて、途上国の人々が日々置かれているであろう状況を、体感的に(「皮膚感覚」で)掴み取ることができたからです。


このような経験を潜り抜けた後に、翻って先進国の視点から途上国を語っている社会科学を見てみると、そこにある種の「傲慢さ」のようなものを感じないわけには、いきません。具体的に言いましょう。もしも途上国の人々の置かれた立場で考えてみるならば、とても出てこないであろう「上から目線」の議論が、先進国出自の社会科学には、やはりあります。そしてこうした「傲慢さ」は、本山先生がかつて経験したように、そして今回私が経験したように、災害というある種の極限状況の中でないと、なかなかきちんと見えて来ない(認識されない)ようです。


このように、地震と余震のなかで執筆した今回の論文は、開発学という学問のあり方や、先進国から途上国を語る際に気をつけねばならぬことなどを考え直させられる、一つの非常に大きな契機になりました。出来上がった小論は拙いものですが、私にとっては、研究上の転換点になるかもしれないぐらいの大きな意味を持ちそうです。「これから考えなくてはならないことを、たくさん発見できた」。そんな思いを持ちつつ脱稿しました。今後の研究に活かしたいと思います。


(注)「災害と開発」というのは、開発学のなかで一つの研究ジャンルになっているようです。アマゾンで検索すると、このテーマに関連した結構な数の本がヒットします。

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