2012年6月11日月曜日

千葉大ユニオンの役員になりました

今日は、千葉大ユニオン(千葉大の労働組合)の定期総会がありました。

じつは今年6月から、私は千葉大ユニオンの事務局長となることが、既に過日の信任投票で決まっていました。今日は、信任された新執行部の一員として、定期総会にて、今後1年間の予算の説明をし、また簡単な挨拶も述べました。大学を取り巻く状況が厳しくなっており、給与の削減という話も出てきていますので、頑張らないといけません。

組合の使命としては、労働条件の維持改善は当然として、もうひとつ、経営のチェックというのがあると思っています。特に国立大学の場合、民間企業のように自由に給与体系をいじくることができませんので、後者の経営のチェックの重要性が相対的に増してくると思います。余談ですが、昨年オリンパスの不正会計が明るみに出たとき、「なぜ組合は黙っているのだろう」とずっと思っていたのですが、調べてみたら、じつはあの逮捕された菊川社長という人は、もともと組合の委員長だったそうです。つまり組合からすると、社長が元委員長なので、声を上げにくかったのでしょう。でも、これではよろしくないわけです。チェックのない権力が腐敗しがちというのは古今東西共通ということをかみ締めながら、任務にあたりたいと思います。

もう一つ、組合の役員をやることについてです。これについては、「時間を取られる」、あるいは「そんな時間があったら、論文の一つでも書かねば・・・」と敬遠する人が圧倒的だと思います。たしかに組合活動で時間を取られると、生涯の論文執筆本数が1本か2本は減るかもしれない。ただそれが研究者として決定的なロスかと問われると、私にはそこまで言い切る自信がありません。また、そうやって自分の時間を研究に費やしてみようとしたところで、肝心の生活のための糧を得る自分の職場がガタガタになっていったりしたら、研究どころではなくなってしまいます。これは、現下の状況では、必ずしも杞憂とは言えなくなっているように思います。

このようなことを考えるようになったきっかけの一つは、少し前にイマニュエル・ウォーラーステイン『ヨーロッパ的普遍主義』(明石書店、2008年)、を読んだことにあります。そこには、大学の厳しい将来像が示されていました。以下に引用してみます。

「20年から50年ほど先のことを考えるならば、次の3つのことが起こりうるということは、私には明らかなことのように思われる。〔第一に〕近代的大学は、知の生産の主要な場では(再生産の場でさえ)なくなってしまうということは(中略)、ありうることである」。「〔第三に〕社会科学の諸個別科学の制度は崩壊し、行政当局の支配下に入るか、あるいは場合によっては行政当局によって根本的な再編(それがどういったかたちになるかはきわめて不透明だが)を強いられる可能性がある」(同書、p.136)。

いつもながら、ウォーラーステインの提示する将来像は、いろいろな事を考えさせてくれます。行政当局による根本的な再編というのは、たとえば財政状況が極度に悪化して、国民への行政サービスが大きく切り下げられるような時に現実化するかもしれない、などと想像してしまいます。

大学を取り巻く構造をロングスパンで考えながら、1年間、役職をまっとうしたいと思います。

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