映画「すべての政府は嘘をつく」をNHKで見た。
http://www.uplink.co.jp/allgovernmentslie/
http://www6.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/?pid=170201
http://www6.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/?pid=170202
日本では、2017年になってから「もり・かけ」問題が起きた。この問題は、第一次的には、森友学園への国有地の不正売却の疑いと、もともと新設不要の獣医学部が首相の友人の加計学園のために行政手続きを歪めてまで設置されようとしているという問題であった。いずれも、首相やその周辺のために、行政が「忖度」で動いた疑いが大きな焦点となっている。
ただし、もう一つの別次元の問題として、こうした疑惑を報じるメディアの問題、つまり報道機関の取材や報道の仕方がえらく腰が引けている、という問題が浮かび上がってきた。つまり、報道側も、財務省などの行政官僚と同じで、首相やその周辺に嫌われぬよう、「忖度」して取材したり報道している、ということである。加計学園の獣医学部新設問題に関して、流れを大きく変えたのは、6月の官房長官会見で執拗に食い下がって追及した東京新聞社会部の望月記者だったが、彼女に対しては、大手メディアの政治部記者によって構成される官邸の記者クラブが、「官房長官をあのように執拗に問い詰めると、有用な情報を貰えなくなるから、望月記者のあのような執拗な追及の仕方は良くない」と不快感を示した、という呆れた話が漏れ出てきた。他方で、政府への果敢な追及に同業者が不快感を示すことじたい、メディアや報道の本来のあり方として根本的におかしい、という真っ当な意見も出てきた。
そうしたなかで、この映画「すべての政府は嘘をつく」を見たのだが、この映画で、一番驚かされたのは、日米の共通性である。つまり、私はこの映画を見るまで、このような報道機関の取材や報道の仕方がえらく腰が引けているとか、権力者に嫌われぬよう適度に手を緩めて質問したり報道したりする、というのは、日本ではあってもアメリカではない、と思っていた。また、アメリカという国では、ジャーナリズムの独自性・独立性が高く、権力者を果敢に追及し、権力者と馴れ合いの会合の機会を持つことで追及の矛先が鈍るなどということはなく、調査報道が活発な国だ、と思っていた。
ところが、この映画を見て、私のこうした思い込みは、どうも間違っていたようだと気づかされたのである。この映画によると、アメリカでも、大メディア・大手マスコミになればなるほど、またそうした報道機関の上位層(経営者層)になればなるほど、権力を厳しく追及する気風は薄くなっている、というのである。また、アメリカに特徴的な深刻な問題として、戦争(たとえばイラク戦争など)に突入すると、「この戦争は、米国にとってきわめて重要であるのだから、メディアもそれに協力したりそれを支援したりしなくてはならない」と考える記者がたくさん出てきて報道が歪んでしまうのみならず、そうした記者たちは、政府が嘘をついていないか監視したり追及したりする同業者を批判したりする、というのである。
これでは、日本と何ら変わらないではないか。なるほど確かに、日本の「報道の自由ランキング」は、民主党政権時代の2010年には11位にまで上昇していたのに、安倍政権になってからはどんどん低下して、今や72位だが、ではアメリカはどうなのかと言うと、実はこれも結構酷くて、43位なのである(2017年)。要するに、問題は、アメリカのメディアは良いが日本のメディアはダメだ、などという単純な話ではないということだ。そうなると、では、ジャーナリストとしての本来のあり方、つまり「記者魂」はなぜ失われていってしまうのか、ということが問われなくてはならない。
例外もあるとはいえ、多くの人間は、高いステイタスや高い収入を好む。そうしたステイタスや収入は、それなしには得られないクオリティの高い生活、さまざまな得がたい経験、そして社会に広範な影響を与える意思決定への関与といった、ごく一部の人だけに与えられるものをもたらす。だが、こうした生活・経験・関与に恵まれるようになると、だんだんと、それを可能にしてくれているステイタスや収入を維持することへの執着が強まっていく。そうなると、ステイタスや収入じたいが目的化していく結果、圧力や軋轢を伴う行動や判断はなされなくなっていく。換言すると、社会的な正義や価値へのコミットメントよりも、個人の損得へのコミットメントが優先されてしまう、ということだ。
このような構造が学術界にもあることは、学者というものをある程度の年月以上やった人なら、私も含めて気づいているはずである。これの最も分かりやすい例は、いわゆる原子力ムラである。原子力ムラでは、ものすごく多額の研究費が動くので、正義や価値へのコミットメントよりも、損得へのコミットメントが優先されてしまいやすいのである。このムラにどっぷりつかった学者が、3.11以降、原子力に関する過去の言動を批判されると、「私にも家族がある」などと開き直ることが多いそうだが、こうした開き直りは、個人の損得を重視する一方で社会的な正義や価値にはコミットしなくなるという事態をよくあらわしている。そして、このような事態は、日米の、否、先進国の多くのジャーナリスト、行政官僚、政治家、学術研究者など、各界の指導的立場にある人物にかなり広く見られる事態であると考えたほうが良いだろう(もとより、国によっても程度の違いはあり、日本ではとりわけ損得への傾斜が深刻であるとは思うが)。
この映画が、人々にどのように見られているのかは、私の知るところではない。この映画は、私にとっては、未知だったI・F・ストーンの優れた報道姿勢を教えてくれたこと以上に、現代社会のきわめて根の深い問題――社会的な正義や価値へのコミットメントよりも、個人の損得へのコミットメントが優先されがちになっている――を、改めて気づかせて、考えさせてくれた映画として、秀逸なのである。
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