2011年10月15日土曜日

毎日新聞に『国際政治モノ語り』の書評が出ました

私が執筆者の一人に加わった『国際政治モノ語り』の刊行については、既に7月のエントリーでお知らせしましたが、この本に対する書評が、10月9日『毎日新聞』に掲載されました。
http://mainichi.jp/feature/news/20111009ddm015070027000c.html


私は今まで幾つかの本の執筆に関わってきましたが、大新聞の書評欄で取り上げられたのは初めてです。この本は、私自身も思い入れがあり、多くの人に取っていただけたらという願いがありましたので、たいへん嬉しいことです。本書は、書評子が記してくださったように、「グローバル経済理解の格好な入門書」になっています。どうぞ手にとっていただけますよう、よろしくお願い致します。

2011年9月5日月曜日

漸減している大学生への仕送り額

今日の日経新聞に、下宿している大学生への仕送り額の変遷のデータが載っていました。データは、全国大学生活共同組合連合会が、全国の下宿している大学生5000名余りを対象に調査して得られたものです。詳しい数値は同連合会のサイトにあります

これによると、2000年には9万7120円だった平均仕送り額が、2010年には7万1310円にまで下がっています。もっと驚くべきことは、学生の仕送り額を、「月に10万円以上」「月に5万円以上10万円未満」「月に5万円未満」の3つに分けた場合に、2001年までは、下宿学生のうち6割以上が「月に10万円以上」だったのに、この比率がどんどんと低下しいまや3割強にまでなっていること、そして2010年には「月に5万円以上10万円未満」が最も多い層になっていることです。また、「月に5万円未満」も、2002年から上がりはじめ、いまや25%を超えています。この調子だと、近い将来に、「月に5万円未満」の率が「月に10万円以上」の率を上回る可能性もありそうです。

わたしが大学生だったのは、1990年代前半から後半にかけてですが、親からの仕送りは1年次が月10万円、2年次以降は月10.5万円でした。当時わたしは朝夕2食つきの賄いつきの下宿(こういう下宿は当時も絶滅寸前でしたが、いまはもっと見当たらないでしょう。というか、「賄いつきの下宿」というものをイメージできない学生さんが多いかもしれません)に住んでいて、大家さんに払う費用は1年次が月5万円、2年次以降は月5.5万円でした。さすがに残る5万円では苦しいので、大学の無利子の奨学金を月に3.5万円もらっていましたが、このおかげで生活に苦労することはありませんでした。若干のバイトもしましたが、バイトなしでもやっていける状態でした。

この調査からすると、今の時代、月10.5万円の仕送りは多いほうなのでしょう。しかし今の学生さんは驚かれるかもしれませんが、私が大学生だった時、私よりも多く仕送りをもらっている友人がゴロゴロいました。わたしの大学時代の親友2人からは、ともに月13万ぐらい仕送りしてもらっていると聞いた記憶があります。

もちろんこの額は、平均なので、学生の住んでいる場所が地方か都会かなどで違うかもしれません。しかし景気低迷とデフレの影響がハッキリ出ていることは否定できないでしょう。わたしもゼミの学生さんとのコンパのときには、もう少し財布を緩めたほうが良いのでしょうか。しかし勤労者である現役世代にとっても、景気低迷とデフレの影響で、給与水準も生涯年収も下がってきています。まったく悩ましい話です。

2011年8月31日水曜日

東京造幣局を見学してきました

今日は、ゼミの一環として、東京造幣局を見学してきました(台風が来るのではないかとやきもきしていたのですが、関東には影響がありませんでした)。

造幣局と言えば、「コインを作っているところ」というのが、日本人の一般的な理解だと思います。これは間違いではないのですが、我々が日常使っているコインは、じつは東京造幣局ではなく、広島造幣局で作っているそうです。では東京造幣局ではコインは作っていないのかというと、そういうことではなく、一般にはほとんど流通しない、レア物の「プルーフ貨幣」というコインを少量生産しているのだそうで、その製造工程について、説明を受けながら実地に見学することができました。

東京造幣局で作っているコイン以外のものとしては、勲章や褒章があります。製造は手仕事によるところが多く、完璧に職人さんの世界でした。公務員でこういう仕事をしている人がいるとは、考えたことがありませんでした。

ちなみに勲章についてですが、公務員で一定以上の職(学校の教員だと校長など)を務めると、晩年には叙勲の対象になるはずですので、わたしなどは「うちのゼミ生たちも、あと60年ぐらいしたらこれを受け取るのかもしれないな」と思いながら見ていました。ここでは、大勲位菊花章頸飾や、大勲位菊花大綬章といった、高位の勲章も見ることができます。最高位の大勲位菊花章頸飾は、大きい上に22金なのでかなり重そうでした。これを戦後に受賞した日本人は、皇族を除くと吉田茂と佐藤栄作の二人だけだそうです。納得できる話です。


ところで、造幣局は東京・大阪・広島の三拠点体制ですが、意外なことに大阪が本局で、東京は支局なのだそうです。これは明治のはじめに貨幣制度が構築されるときに、財政的な裏づけから大阪に拠点が構えられたところに由来しているという説明をうけましたが、当時の詳しい意思決定については、正直言ってよくわかりません。ただハッキリしているのは、日本のなかでの商都・大阪の経済力が、当時はかなり高かったということでしょう。

2011年7月30日土曜日

『国際政治モノ語り:グローバル政治経済学入門』刊行のお知らせ

このたび、富山大学の佐藤幸男先生を編者とする『国際政治モノ語り:グローバル政治経済学入門』(法律文化社、2011年)が、刊行されました。わたしは、第5章「石油:『資源の呪い』とその克服の方向性」を担当しました。

本書は、タイトルこそ国際政治と銘打たれてはいますが、政治学者・経済学者・歴史学者(特に世界システム論)の研究者による学際的な本であり、むしろサブタイトルにある「グローバル政治経済学入門」のほうが、内容をより正確に表しているかもしれません。木材、マグロ、水、米、コーヒー、象牙、ダイヤモンド、兵器といった、さまざまなモノを手がかりにしてグローバル政治経済を探ることと、「資本主義経済が不平等を前提に発展」してきたという世界システム論的な考察とが、本書の二本柱となっています。したがって、世界経済・国際経済を学ぶ方々にも推奨できる本です。機会がありましたら、ぜひ手にとっていただけますと幸いです。


2011年7月16日土曜日

猛暑と節電のなか、前期終了:ウルトラ・クールビズを実行しました

前期の授業期間が終了しました。今年は節電のため、授業期間が短縮され、テストを含めて7/16までに全て終了させることになったので、例年になく早く夏休みに突入することになります。酷暑のなか、授業では冷房がほとんど使えないという困難はあったものの、「来年以降もずっとこれ(7月半ば終了)でいい」という感じです。このことについては、数名の同僚も同じ意見でした。


今年は節電と、その後に出てきた「ウルトラ・クールビズ」の流れにのって、6月末から短パンで出校し、教壇に立ちました。じつは、昨年から、真夏に長ズボンを履いて出校する事に困難を覚えており(いろいろ事情があって、ものすごく汗をかいていたからです)、震災以前から短パンでの出校を目論んではいたのですが、いかんせん踏み切るべきかどうか、悩みがありました。しかし節電要請のなかで、世の中でも短パンを可とする「ウルトラ・クールビズ」が出てきたので、これ幸いと実行してみた次第です。


結論としては、短パンでの出校はとても快適で、来年以降も電力需要に関係なく、短パンで出校し教壇に立つつもりです。もとより、「短パンなんて、大学の教員としてふさわしくない格好だ」というお叱りが一部にあることは承知しています。ですが、長ズボンを履いて冷房をガンガン効かせるより遥にエコで良いはずですし、学生諸君も私の講義を「聞く」ために大学に来ているのであって、格好を「見る」ために来ているわけではありますまい。なにより学生諸君がわたしの短パン姿を支持してくれたのが幸いでした。


「クールビズ」というものが出てくる以前は、夏でもネクタイを締めるのが普通でした。でも、いまは、夏はノーネクタイというのがすっかり定着したように思います。エンジニアや内勤の方のみならず、お客さんを相手にする営業マンでさえ、ノーネクタイがごく普通になりました。好ましいとされる服装の規範なるものは、時代とともに変わってきたし、今後も変わっていくのだと思います。


学部講義のテストの採点も終わり、あとは大学院のレポートの採点を残すのみとなりました。例年以上に長い夏休みですので、研究に励めたらと思っています。

2011年6月29日水曜日

猛暑日、しかし冷房は使えず

今日は千葉市で35.0度を記録したそうです。この夏初めての猛暑日でした。ちなみに、千葉市で6月に猛暑日を観測したのは、史上初だそうです。

さてわたしは水曜日の3時間目に講義を行っています。大学は電力の大口需要者であり、電力需給が厳しいということで、節電を心がけるようにしています。今日もなるべく冷房を使わないようにしたいとは思ったのですが、いかんせん一日のなかで一番暑い昼過ぎの教室に温度計を持ち込むと、たちまち30度を超えてしまいました。しかも湿度も75%を超えていたので、授業開始後しばらくしてすこし冷房を入れてみました。

ところが、しばらくすると省エネ担当の方が教室までお見えになり、「電力使用量が増えていて非常にまずいので、エアコンを切って欲しい」とのことでした。致し方ありません、エアコンは切りました。すると再び蒸し風呂に逆戻りです。


節電のためにエアコンが使えないのは仕方がありません。また、私の職場の講義棟は築40年を超えていますが、むかしはエアコンなしだったのも事実で、贅沢を言ってはいけないのでしょう。ただつくづく問題だと思うのは、建物の断熱性が低いことです。壁や天井にはおそらく断熱材など入っていないように思われます。窓もガラス一枚です。これでは、外気の影響をモロに受けてしまいます。この(おそらく)断熱材なし、一重窓というのは、講義棟だけではなく、研究室のある建物も同じで、私の研究室は最上階ですが、真夏の昼間などは冷房を切るとたちまち30数度になります。建物自体が発熱してしまっているという感じです。

建物に断熱材が入っていれば、そして窓が二重になっていれば、外気の影響を受けにくくなりますし、エアコンも、少し入れただけでよく効くようになるはずです。そしてそうであれば、エアコンによる電力の消費量もぐっと少なくて済むわけです。

本州の建物では、断熱材なし、窓は一重というのが一般的ですが、私の生まれ育った北海道ではまったく違います。建物には断熱材が入り、窓が二重というのが常識です(窓が一枚の建物など、ありません)。とはいえ最近は本州でも、新築のマンションなどで外断熱を売り物にしているものが増えていますし、エコポイント制度の後押しもあって、窓を二重化する家も増えていると思います。こういう、断熱効果を高めた建築が、もっともっと世の中に広まらないといけません。

本来ならば、数年前の教育学部の建物の改修工事のときに、断熱材を入れたり、窓を二重にするなど、断熱効果を高める処置をしておければよかったとわたしは思います。じつは改修工事の際、わたしは、研究室のある建物については窓を二重にするよう、要望しました。断熱効果を高める処置をすれば、それだけお金がかかりますが、その分だけ冷暖房費が削減されるわけで、長い目で見ればそのほうが安上がりになるはずだし、何よりもエコだろうという考えに基づいたものです。しかし要望は、「予算がない」の一言で却下されました。

要するに、断熱効果を高める処置という、短期的にはお金がかかってマイナスだが長期的には電力の節約になってプラスという政策がとられなかったわけです。そして、断熱効果を高める処置をしないので、短期的には安上がりでプラスだが、長期的には毎年毎年電力を浪費してしまいお金がかかるという、マイナスの政策が取られたわけです。このツケが、節電が求められるようになった今夏に、早速出ているわけです。

こういう、目先の利益を優先したばっかりに、長期的にツケを払わされるという構図は、もうありとあらゆるところにあります。消費税を上げるよりほかないはずなのに、なかなか上げられない日本の政治経済状況もこれに似ているように思います。

なんだか最後は暗い話になってしまいました。来週の授業日は、暑くなければよいのですが。

2011年6月23日木曜日

OBの訪問

今日は研究室に、学校教員となったゼミのOBが、訪ねてきてくれました。夕方だったので、ほどなくして西千葉駅近くの居酒屋に移動して、配属されている学校現場のことや、授業のやり方のことなどを聞かせてくれました。立派に仕事をこなしているようで、頼もしく感じました。その後、途中から別の卒業生も参加してくれて、楽しいひと時を過ごすことができました。うっかり遅くまで飲みすぎてしまったので、朝早い学校の先生には、ご迷惑をおかけしたかもしれません(すみません、反省しています)。これに懲りず、また遊びに来てくれたらと思います。

教え子の訪問を受けて、ふと大学院生時代の師匠のことを思い出しました。教え子である私は、師匠にはしばらくお会いしていないのですが、たまには足を運んで、杯を傾ける機会を持ちたいものです。

2011年6月10日金曜日

論文脱稿

少し前のことになりますが、久しぶりに専門の論文を1本書く機会があり、5月に脱稿しました(本当は、「久しぶり」ではいけないのですが、いかんせんこの間、教科書的な本の分担執筆の仕事が2つあり、また専門とは関係がない論文を書いていたりもしたので、久しぶりになってしまいました)。書いていたのは主に2月から5月にかけてでしたが、この間に東日本大震災があり、余震に怯えながらの執筆でした。


論文の執筆中、本山美彦編『開発論のフロンティア』(同文館、1995年)の「はしがき」を何度も何度も繰り返し読みました。この「はしがき」は、本山先生が阪神淡路大震災の直後に書かれたものですが、神戸にて被災者として経験したことを素材とし、災害という一種の極限状況から途上国の人々の置かれた状況を類推的に考察した上で、近年の開発経済論のあり方を批判したものです(本そのものは開発経済論の論文集なのに、この「はしがき」のおかげで、関西では震災本の一つとしてもリストアップされているほどです)。


私自身、この「はしがき」は何度か読んでいたのですが、今回の地震の後に改めて読み返してみて、そこに書かれてある一字一句が、あたかも体に染み込んでくるかのように、理解できました。というのも、今回の地震で私も、停電騒ぎやら食料品の買い占め・不足やら断水やらを経験し、また電気もガスも水道も食料もない被災地を報道で見るにつけ、先進国では非日常的ながら途上国ではごく日常的な一種の極限状態に一時的とはいえ身を置くことを余儀なくされたわけですが、このような先進国では例外的な状況を経験をする事によって初めて、途上国の人々が日々置かれているであろう状況を、体感的に(「皮膚感覚」で)掴み取ることができたからです。


このような経験を潜り抜けた後に、翻って先進国の視点から途上国を語っている社会科学を見てみると、そこにある種の「傲慢さ」のようなものを感じないわけには、いきません。具体的に言いましょう。もしも途上国の人々の置かれた立場で考えてみるならば、とても出てこないであろう「上から目線」の議論が、先進国出自の社会科学には、やはりあります。そしてこうした「傲慢さ」は、本山先生がかつて経験したように、そして今回私が経験したように、災害というある種の極限状況の中でないと、なかなかきちんと見えて来ない(認識されない)ようです。


このように、地震と余震のなかで執筆した今回の論文は、開発学という学問のあり方や、先進国から途上国を語る際に気をつけねばならぬことなどを考え直させられる、一つの非常に大きな契機になりました。出来上がった小論は拙いものですが、私にとっては、研究上の転換点になるかもしれないぐらいの大きな意味を持ちそうです。「これから考えなくてはならないことを、たくさん発見できた」。そんな思いを持ちつつ脱稿しました。今後の研究に活かしたいと思います。


(注)「災害と開発」というのは、開発学のなかで一つの研究ジャンルになっているようです。アマゾンで検索すると、このテーマに関連した結構な数の本がヒットします。

2011年6月5日日曜日

日本平和学会春季研究大会@新潟

日本平和学会の春季研究大会に出席するために、4日から5日にかけて、新潟市の新潟国際情報大学(NUIS)に行ってきました。新潟市内を訪れるのはおよそ6年ぶり、2度目です。前回は京都からの日帰りで、新潟市内にいたのは3時間ぐらいというじつに慌しい訪問でしたが、今回は初日の夜の懇親会で地酒を堪能するなど、地元の食文化に触れることもできました。ちなみに、懇親会でお会いした茨城大学の蓮井先生には、昨秋の学会でお世話になったお礼を述べることができました。


学会の会場は中央キャンパスという、新潟市内中心部の交通の便利の良い場所でしたが、なんでもここ、10年ほど前に経営破綻した新潟中央銀行のかつての本店跡地だそうです。銀行の経営破綻後に更地になった場所に建てられた清潔感溢れる9F建てのビルが丸ごとキャンパスという立派なところでした。それと、今回NUISの教員の方から伺って初めて知ったのですが、学長が、元新潟県知事の平山征夫氏だそうです。


学会には、2日間とも朝から夕方まで参加しました。初日の午後の部会では、私の学部時代の卒論の副査の先生とお会いし、同じ机に並んで報告を聞きました(卒論の審査のときに、この副査の先生から頂戴したお言葉をふと思い出しました。でも、向こうは覚えてないでしょう)。また二日目の午後の部会は、企画委員として企画に携わった部会でした。報告・討論・司会の先生方のおかげで、成功裡に終えることができました。無事に仕事を果たすことができて、ホッとしました。


今年の秋大会は広島、来年の春大会は沖縄だそうです。ちなみに来年2012年は、沖縄の本土復帰40周年です。両方とも足を運ぶつもりで、今から楽しみにしています。

2011年4月28日木曜日

新歓コンパ

今日は、新3年生を迎えての新歓コンパを開催しました(全員が揃えなかったのは少し残念ですが)。ゼミ生には、これから、タテ(先輩後輩)・ヨコ(同期)の関係を深めて欲しいと思います。と同時に、せひ聞き上手・話し上手になって欲しいとも願っています。せっかく何かの縁があって、ゼミという「場」を共有しているのですから、相手から話を聞きだしたり、あるいは相手に自分の話を伝えることの上手に出来る人になってもらえたらうれしく思います。


いろいろな考え方があるとは思いますが、わたしは、ゼミでの議論を深めるためには、教員とゼミ生、またゼミ生同士の人間的な繋がりがあったほうが良い(議論が深まりやすい)と思っています。そのためには、ゼミの正規の時間帯だけではなく、やはり飲み食いを共有しながら語り合う時間が多少はあったほうがよい、だからゼミコンパの機会を設けるという考え方です。


今回は、カメラで写真を撮るのを忘れてしまったので、写真はありません。数年後に、ゼミ生と私とが当時を振り返る「事後検証」が不可能になってしまいました(二次会に居た方にしかわからない「内輪話」ですみません)。

2011年4月15日金曜日

アフリカ研究者の夜

今日は、某所にて、他大学で教鞭をとるアフリカ政治経済の研究者で集まって、研究上の打ち合わせをしてきました。各人の所属する大学では、地震による計画停電にそれぞれどのように対応しているかなど、アフリカ政治経済以外の情報交換をすることもできて、有意義なひとときでした。連休明けから開講の都内の私立の大学では、前期の授業が12週程度で終わるところも少なからずあるようです。

もちろん、アフリカの情報交換もしてきました。知り合いからは、ニジェールのウラン開発に東電が一枚噛んでいるという話を聞いてきました。

2011年3月23日水曜日

卒業祝賀会

今日は卒業式の日でした。

あいにく今回の地震で会場にも被害があったとかで、卒業式そのものは中止されましたが、その後の卒業祝賀会は、例年通り行われました。その後、卒業証書を学生に授与しました。

よく「健康に留意されてください」という趣旨の言葉が、祝辞の最後に発せられます。わたし自身も、十数年前に、このように言われて卒業したような記憶がありますが、ずっと気に留めていませんでした。なぜならば、当時23歳だった自分にとって、健康であることは「当たり前」の話で、わざわざ「留意」する必要などまったく感じていなかったからです。

ですが、最近になって、この言葉が頻繁に発せられる理由が、よくわかります。20代のうちはともかく、30代になってくると、体力も衰え始めるし、若い頃のような体のキレも、もはやない。のみならず、人によっては健康診断に引っ掛かりはじめる。長きに渡って健康を維持するのは思いのほか難しいということを、否応なしに思い知らされる。こうして、自分自身にとって健康が「当たり前」ではなくなったとき、人は「健康に留意されてください」という言葉を発するようになる。そんな気がします。

皆さんのご活躍をお祈りしています。どうぞ健康第一で。


2011年3月18日金曜日

地震から一週間

3月11日金曜日の地震から、一週間が経ちました。

最初の週末は、自宅および研究室で崩れた本の後片付けや、動いた家具の据え付け直しなどをしていました。ところが、背伸びをして天井近くでの作業を重ねていたからでしょうか、まずいことに腰痛になってしまいました。度重なる余震、頻繁に流れる緊急地震速報の警告などのたびに、身構えてしまうのも、腰痛を悪化させたかもしれません。

そうこうしているうちに(地震の翌日以降)、スーパーから、パン・惣菜・弁当・カップラーメンを皮切りに、日配食品、コメ、乾麺などもあっという間になくなっていきました。不安心理からの買い占めによるものでしょう。ただし、わたしの自宅の近くでは、地震で断水した地域があり、断水となると調理が難しいですから、これらの地域の方々が、調理せずに食べられるものを大量に買い出しにやってこられたようで、これが店頭での品薄という事態を悪化させたようです。

毎日の食料の入手にきわどい思いをする日々が続くなかで、追い討ちをかけるように計画停電。あったりなかったりですが、停電の前後に電気を要する家事をこなしつつ、停電前にはパソコンを切っておく必要がありますので、ちっとも仕事にならない状況です。そんなこんなで、あっという間の一週間でした。

しかし職員の方はもっと大変だと思います。何せこの間、大学内の停電と断水、(さらに、ひょっとするとろくにありつけない食事)という状況のなかで、日常業務をこなしつつ、合格手続きやら、入試・卒業式の予定変更に伴い発生する業務などをこなしているわけですから。今日は学長から、大変丁寧に労をねぎらうメールが教職員宛に配信されました。学長の気配りに、深く感じ入りました。

わたしは、十代の頃に、三陸地方の沿岸部に住んでいました。今回の被災地の一つです。この地の友人との連絡がまだ取れていませんが、公共機関の職員ですから、きっと被災者の支援に走り回っているに違いないと、固く信じています。


ところで首都圏での生活に関連して一言触れると、今回の地震と停電で、何か特定のものに集中・依存するリスクを、首都圏民は「皮膚感覚」で理解できるようになったのではないかと思います。電力供給源の一極集中(福島の原発に依存しすぎだった)。電力というエネルギー源への一極集中(ガスを使わないオール電化では、停電で煮炊きも暖房もアウト)。そして首都機能そのものの一極集中。特定のものに集中・依存せず、いろいろなものに分散させておくのが、何かあった時に被害を小さくするカギであるように思います(したがって、日本経済の低迷で、すっかり聞かなくなった首都機能移転論が、再活発化するかもしれません)。じつはこれは思想も同じです。特定の考え方以外を排除するような社会は、効率が良いように見えて、流れが変わったときに、太刀打ちできなくなります。多様性が大事です。

2011年3月17日木曜日

妹尾への連絡について

職場である千葉大学は、停電の第1グループになっています。また千葉大学は、停電時間の30分前より、大学のメールサーバーを止めるとのことです。さらに停電復旧後、サーバーの処理が増えるためだと思いますが、メールの送受信に遅延が生じているようです。これらの諸事情により、メールの送受信に通常よりも時間がかかっております(国内からの送信でさえ、到着までに数時間かかることもあります)ことを、どうぞご理解下さいませ。

なお、千葉大のメールサーバーが止まっていても、こちらにメールそのものが届かないということは、原則としてないはず(千葉大のサーバーが復活するまで、送信側のサーバーに留め置かれるだけ)なので、何時送信されても構いません。

2011年3月11日金曜日

平成23年東北地方太平洋沖地震

写真は、千葉大学近くの千葉市美浜区のスーパーの入り口付近です。かつて海だった埋立地なのですが、液状化現象で地面に砂と水が浮き上がってるのが、わかるでしょうか。

わたしは、もちろん無事です。

2011年3月10日木曜日

公開シンポジウム「武力紛争から国家建設へ」

今日は、タイトルのシンポジウムを聞くために、市ヶ谷のJICA研究所まで行ってきました。決してメジャーとは思えないテーマですが、にもかかわらず150人の定員が満員で、ビックリしました。実際、聴衆にも著名な研究者が多数集まっていました。もう一つ、若い聴衆が多かったのも印象的でした。どこかの大学院生でしょうか。

2011年2月26日土曜日

追い出しコンパ

今日は、ゼミの4年生の追い出しコンパをやりました。3年生からは、「サプライズ」がありました。

今回卒業する4年生は、わたしが千葉大に着任したのと同時に入学した学生なので、わたしにとっては入学から卒業までの4年間をずっと見ていた最初の学生、ということになります。わたしとしても、思い入れがあります。ゼミ生も優秀だったので、こちらとしてはやりがいもあり、また指導しやすく、助かりました。

卒業生の皆さんの活躍を祈っています。20代前半の若者には、無限の可能性が開かれていると思います。自分自身のことを振り返って考えてみるに、おそらく人生で最も可能性の開かれている時期でしょう。疲れたら、たまには大学に遊びに来て下さい。

2011年2月19日土曜日

日本のGDPはいつから世界第2位だったのか:「1968年から世界第2位」だったという各紙の報道は本当か?

内閣府の発表で、日本の2010年の名目GDP(ドル換算)が中国に逆転され、世界第3位になったという報道が2月14日にありました。

ところで、こうした報道のなかでほとんど必ず出てくるのが、日本は1968年以来、米国に次ぐ世界第2位の経済規模を保ってきた、という指摘です。多くの新聞で、このように書かれています(日経新聞ではこちら。朝日新聞ではこちらや、こちら。毎日新聞ではこちらや、こちら。東京新聞ではこちら。読売新聞ではこちら。産経新聞ではこちら。読売新聞採用サイトではこちら)。なかには丁寧に、「42年で世界第2位の座を譲り渡した」としている記事もあります。

ところがインターネットで調べていたら、この1968年に世界第2位になったというのは間違い、と指摘しているサイトが見つかりました。こちらです。見ていただければわかりますが、1968年に日本は「資本主義国で世界第2位」になったのであって、当時はまだソ連のほうが日本よりGNPの規模が大きかったので、1968年には日本は世界では第3位になったに過ぎない、というわけです。上記のサイトでは、その根拠として、高校日本史の教科書や、政府のHPを複数挙げています。

ただ残念なことに、典拠だという日本史の教科書のページ数が記載されていません。これはいただけません。そこで早速、調べてみました。まず実教出版の『日本史B』新訂版(平成15年発行)ですが、p.347において、「日本経済は、1955(昭和30)年ころから73年ころにかけて年率10パーセントをこえる成長率で高度成長をとげ、国民総生産(GNP)はこの期間に実質5.4倍となり、1968年にはアメリカについで資本主義世界第2位となった」とありました。また、清水書院の『詳解 日本史B』改訂版(平成12年発行)では、p.343において、「船舶・自動車・鉄鋼の輸出が大きくのび、日本の国民総生産(GNP)は資本主義国ではアメリカについで世界第2位(1968年)の経済大国に成長した」とありました。

確かに、どちらも、日本のGNPが1968年に資本主義国のなかで世界第2位になったと書いています。では、日本のGDP(当時はGNPで比較するのが一般的でしたから、教科書ではGNPとなっていますが、GDPでもほぼ同じことです)が、社会主義国も含めて文字通り世界第2位になったのは、つまりソ連を抜いて世界第2位になったのは、一体いつだったのでしょうか? 残念ながら、これを論じているWebページが見あたりません。そこで、統計にあたって調べてみることにしました。

参照したのは、UN(国連)のStatistics Divisionが提供しているNatinal Accounts Main Aggregate Databeseです。ここの上から2番目に、GDP and its breakdown at current prices in US Dollarsという項目があります。この項目のなかにあるAll countries for all years - sorted alphabeticallyをクリックすると、世界各国の1970年以降のGDPのデータ(それ以外も含まれていますが)のExcelファイルを取得できます。以下は、このデータに基づく記述です。

まず1970年、ソ連のGDPは4334億ドル、日本のGDPは2029億ドル。確かに日本は、ソ連の足元にも及びません。このように、日本が経済規模でソ連に負けている状態は、1977年まで続きます(ソ連7384億ドル、日本6886億ドル)。そして1978年になって、ソ連のGDPの8401億ドルに対して、日本のGDPは9676億ドルとなり、逆転します。日本が、社会主義国も含めて文字通り世界で第2位の経済規模の国になったのは、この1978年だったわけです。ちなみに、この年に日本のGDPが一気に40%も増えたのは、すさまじく経済成長を遂げたというわけではなく、急激に円高が進んだのが原因です。この年、1ドル=300円台から一気に170円台にまで円高が進みました

せっかくなので、この統計で、Germanyがソ連を抜いて世界第3位になった年を調べてみたら、1986年でした。前年(1985年)と比較すると、GermanyのGDPが一気に4割以上増えています。ちなみに日本もこの年、5割近く増えています。これは、前年にプラザ合意があって、この頃マルク高・円高=ドル安が進んだせいですよね。国際比較のためにドルに換算すると、どうしてもこのような為替レートの急激な変動の影響が出てしまいます。

いずれにしても、各紙が報道するように、日本のGDPが「1968年から世界第2位」だったとか、「世界第2位の座を42年で明け渡した」というのは、どうも間違いなのではないでしょうか。そうではなく、「1978年から世界第2位」で、「世界第2位の座を32年で明け渡した」というのが、事実認識としては正しいのではないでしょうか。そうだとしたら、どうして、各社揃って判で押したように間違えているのでしょうか?


(注1)上記の国連統計を見ていると気づくことですが、1970年の時点では、日本のGDPは、GermanyのGDPを下回っています。日本のGDPがGermanyを上回るのは、1972年のことなのです。これについては、2通りの解釈がありえます。第一の解釈は、そもそも日本のGDPが西ドイツを上回ったのは1968年ではななかった、というもの。第二の解釈は、Germanyのなかに西ドイツと東ドイツとの両方が含まれている(ので、両者を合算したGDPでは、1971年までは日本を上回っていた)、というものです。じつはこの統計には、旧東ドイツを意味するGerman Democratic Republicという国名も、旧西ドイツを意味するWest Germanyという国名も見当たりません(旧ソ連や、旧ユーゴや、旧チェコスロバキアなどはあるのに)。このことから考えるに、わたしとしては、第二の解釈を取りたいところです。

(注2)上記の国連統計を見る限り、某質問サイトにある国連推計と称するデータは、正しくありません。学生諸君は、こういう「OKwave」とか「Yahoo!知恵袋」などを鵜呑みにするのではなく、きちんとご自身で統計を確認して下さい。何しろ今は、インターネットのおかげでじつに簡単に、統計にアクセスできる時代なのですから。

2011年1月23日日曜日

卒論を読み終えて

今春に卒業予定のゼミ生3名の卒論を、読み終えました。

我がゼミ生の卒論のクオリティは、かなり高い水準にあると思います。それは、ゼミ生の優秀さもありますが、こちらも一人一人に対して丁寧に手間暇をかけて個別指導しているからです。但し、丁寧に手間暇をかけて個別指導するとなると、少人数でないとできません。たとえばゼミ生が15人とか20人もいたりすると、丁寧な個別指導などはできないとも思います。

年度末となり、期末試験の作成と採点、レポートの採点、来年度の授業シラバス作成などに追われる時期です。さらには今年出る予定の本のゲラの校正や、研究会などもあります。中断している原稿執筆も、早めに再開しないといけません。というわけで、当分慌しい日々が続きそうです。体調を崩さぬように務めたいと思います。